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ハバーマスの「市民的公共性」はそのままでは現代にそぐわないし批判の多い取り扱い注意の概念だよというお話

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https://togetter.com/li/1273256
読みました。まとめは難癖っぽいのであんまり支持しませんが、それでもやはり千田さんのこの発言は問題あると思う。

ハバーマスの「市民的公共性」=「自分で考えてわたしと同じ考えになりなさい」であってはいけない

正直言うと、批判が多いハバーマスの「市民的公共性」概念を無造作に持ち出してくるあたりからしてかなりアウトだと思います。

また、ハバーマスの「市民的公共性」自身はまだ議論の余地がある概念ですが、ハバーマス自身がその困難性を認めてる話であり、これを自明のものとして持ってくる千田有紀さんの使い方は、完全にこれになっています。

f:id:tyoshiki:20181005080230j:plain

こういう使い方をする人がいるからこそ、ハバーマスの「市民的公共性」は批判されたのだという見本みたいになっています。自由な討議や情報公開性について強調するのではなく、私達の意見が公共だ!みたいな使い方をしてはいかんのでしょ。ガンダム00かよ。


私は、公共性をちらつかせて自分が気に入らない意見に圧力をかけようとする意見は「ハラスメント」だと認識しています。

会社における「パワハラ」はそういう構造に寄って行われていると思うので反対です。

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「公共性」を恣意的に利用する人に対抗する意味でも、ハバーマスの公共圏や公共性の構造転換の話は知っておくと良いと思います。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%9C%8F-186002
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この目的意識を支えるのは,現代社会においては公共性の概念が国家の独占物となっていることへの懸念である。本来,公共性とは自立した市民の理性的討議による「公論」の形成を目的としていた。それゆえ「批判的公開性」の原則がそこでは貫徹されていたのである。ところが立法国家から行政国家への移行,さらに介入主義的な国家政策の活発化によって公共性概念そのものが行政サービスの対象に変質した。ハーバーマスはこれを「示威的・操作的公開性」あるいは「統制された公共性」と呼んでいる。こうした公共性をめぐっての危機意識から「市民的公共性」の理念の再建という課題が提起された

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER19.html

我々は「公共」概念を「共同体的公共性」と「市民的公共性」の二つに区別することができる。共同体的公共性とは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味である。市民的公共性とは、「自由な討論」と「公開性(越境性)」が認められているということである。この市民的公共性は、社会正義ないし政治的諸価値が討論される場合には「政治的公共性」となる。

ハーバーマスの「市民的公共性」概念は、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されているという批判がある

この「市民的公共性」の概念には、いくつかの批判があった。

(1) 市民的公共性の実質は、市民層(ブルジョワジー)の公共圏であり、それは絶対主義の公権力と宮廷・教会等の文化的権威に対抗する一方で、より劣位の公共圏-地方や都市下層の「人民的公共圏」など-を抑圧する関係に初めからあった。
(2) この市民層の公共圏には、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されており、女性の排除(女性の「主婦化」)はこの公共圏の存立に取って本質的な意味をもっていた。
(3) このように「公共性の他者」を排除する市民的公共性は、対内的には等質の一次元的な空間であった。

実際、最近「市民的公共性」みたいな考えをやたらと広範囲に適用しようとしたり、すぐに国家の介入をちらつかせる人が多くて、正直オタク云々をおいといて危険な感じがします。NHKはともかく、書店に対してまで過剰に公共性を求めるのは、ちょっとおかしいと思うな。(私はNHKも自由であっていいと思う)


さらに詳しく知りたい人は
このページで完璧にまとめられているので是非見てください。
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Habermas%20Structural%20Transformation.htm

さっきも言いましたけど、ハーバーマスの「市民的公共性」自体はちゃんと論じる価値がある話だと思ってます。ですが、千田さんの話し方は論外だったというのがこの記事で言いたかったことです。


「市民的公共性」の概念は表現のありようを論じる際に正当性を持ちうるのだろうか?

私は、そもそもこれだけ多様化してきた価値観、特にエンターテインメントのありようを考えるときに、画一的な正しさを前提としているような「市民的公共性」の概念を用いるのが適当とは思えません。同様に、多様性をはぐくむはずの書店の陳列に公共性を求めることもおかしいと思っています。

それよりも、もっと政治的な話とかについて、まず市民的公共性を発展させることが効果的であることを示してほしい。そちらのほうをやってないとは言いませんが、まずそちらのほうでこの概念が今でも有効であることを示してほしい。

そもそも千田さんは不誠実な誘導を連続で行ったためもはや信用できない

千田さんは、今回初手で炎上と呼ぶにふさわしくないものを炎上として紹介したりした時点ですでに信頼性がかなり落ちています。

二度目にはキズナアイを好きな女性はいないかのような前提で話をされていてこれもツッコミを受けています。

そして今回3度目になりますが、「市民的公共性」の概念を使用することの正当性を問うこともなく、無批判に紹介して自説の強化に使おうとする態度はかなりいけ好かないです。

もはやこの人は信用に値しないと言わざるを得ません。こういういい加減なことを繰り返すなら教授の肩書を外してからやってほしい。

どうしてもね、こういう雑な絡み方をしてくる人を見ると私は、批判する人の気安さや雑さが気になる。差別だとは思ってませんが、ナメられてるとは思う。どうせ対象が実在の人間ではない二次元やオタクが、雑に攻撃しても被害者が出にくく、面倒くさくないから安易にそちらを攻撃してるという印象を拭えません。


しかし、あまりにもナメすぎたよね。今回珍しく、実在の、しかも女性から傷ついたとか批判が出ました。そうなってから急に攻めの切り口を変えたり、キズナアイそのものを攻撃したわけではないという言い訳をする始末。

さすがにアホかと。

今までそういう反撃を受けることが少なくて、ようやく少し気づいたのだと思いますが、いままで自分たちがどれだけ自分たちの加害性に無自覚にやってきたか少しは考えてほしい。

私は、性的客体化やら性的搾取を唱えて雑な理屈や内面の決めつけまで行って二次元コンテンツやオタクを殴ってる人たちのほうが、よほど人を客体化していると思います。

おまけ1


おまけ2 返信

id:Lhankor_Mhyうーん、この批判だと、ハーバマスと一緒にサンデルあたりもぶった切ってると思う。社会合意を否定したとして「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」という問いに答えをお持ちなのかな?

そうでしょうか。私の中では、表面的にはハバーマスと似ているように見えても、サンデルとハバーマスの立場は異なると考えており、この記事の批判は、あくまでハバーマスの市民的公共性がそのままでは現代に適応できていない点に当てているつもりです。

少なくとも「市民的公共性」においてハバーマスのいう公共性とは、サンデルのいうところのコミュニタリアン的な思想ではなく典型的なリベラルの理念であると考えています。「国家からの統制からの自由」「強制されるのではなく自ら選択する(かわりに自分を律する)」という1960年代ころまで力を奮ったリベラルの意見ではないでしょうか。これに対して、サンデルは著書「公共哲学」において、リベラル派の失敗について語っています。

リベラル勢力は、自らを国家に対抗するポジションとして意識しすぎて、「国と個人の中間にあるコミュニティ(家族、地域、都市や町、学校、信徒団)における自己統治の重要性」を軽視してきた。実際にはハバーマスが前提としていた頃と状況が変わってネットに置いて「クラスタ」という形で中間コミュニティが非常に重要な役割を果たしている現状においてそぐわないと思います。これに対して、サンデルは現代に特有の市民感覚として多様なコミュニティを選択することを許容しているしそのコミュニティ単位で「共通善」を模索することをすすめています。これはハバーマスの、ブルジョア階級が主導する、公共性の概念とは異なるものではないでしょうか。

なので、

社会合意を否定したとして「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」という問いに答えをお持ちなのかな?

まず、今回の件で言えば、私はサンデルの意見に近いです。

まずコミュニティ内部での共通善の模索が重要になるでしょう。このときにあまりに内向き、あまりに閉鎖的で、内部での批判をゆるさないような構造だと「ミニマリスト」や「互助会」、「腐女子界隈の独自ルール」みたいなことになるかもしれません。しかしコミュニティ内でも批判が機能し、複数の価値観のあり方が許容され、その中で議論の生態系が存在していればきちんと共通善の模索は機能するし、蛸壺化して外部から大きくはずれることはないと考えています。 
たとえば、一部のフェミニストの皆さんは、「性描写のあるコンテンツを見ているオタクは、性犯罪との親和性が高くなる」などと考えている人がいるようですが、なにかの統計でオタクはむしろ犯罪を憎んでいる人の割合が多いという話があったはずです。

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今回の件に限らず、とにかく、今は「社会的合意」について論じるにしても、層を分けて考えるべきではないかというのがわたしの意見です。私は国家全体の政治などのあり方を論じるベースとしてはリベラル的な思考は支持できると思っていますし、社会的合意を目指す必要も出てくるでしょう。しかしこと「コミュニティ」ごとに前提が大きく異なり、共有すること自体が困難なコンテンツの受容のあり方などにおいては、安易に公共性の話を持ち出すべきではないと思ってます。 リベラルのアプローチも不可能ではないかもしれませんが、それは国家に対するように「対立的な姿勢」ではなく、どうしてもやるのであれば、相手の前提をきっちりと学び、敬意を持って議論に望むべきです。私は今回の千田さんや太田弁護士さんの主張にそういうものは全く感じられませんでした。 すでにポカをやらかした人が、「市民的公共性」を持ち出してくることについて警戒心をもつのはむしろ当然ではないでしょうか。

例のフェミの人たちはキズナアイへの敬意が欠けてたよ

逆にお伺いしたいのですが、ランカー・マイさん自身は「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」どのようにお考えなのでしょうか?


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