ホームレスの話に関連してなんとなく思い出したので「絡新婦の理」の話でも。
本作品は京極堂シリーズの中でも「フェミニズム」「婦人運動」が殺人事件にかなりガッツリ関係してしまうストーリーになっています。
フェミニズムが人を自殺においやったり、殺人犯を作り上げてしまうというかなりグロテスクな話
この作品の中では
・石田芳江という女性の自殺にも(そもそも彼女は売春婦ですらなかった)
・連続絞殺魔の動機にも
・連続目潰し魔の動機にも
ことごとくフェミニズムが利用されるという現象が起きています。
もちろん、作品としてフェミニズム自体が悪いという主張は一切ありません。
というか、京極堂(秋彦)自身が自らフェミニストを名乗っていますしね。
フェミニズムに関するうんちくも語られます。時代が時代故にフェミニズムに色眼鏡を持っている男性の方が多いですが、秋彦はそれらを逆に一蹴するくらいです。
ただ、売春や近親相姦、女系一族と男系一族の主導、そして敗戦後の米軍慰安施設のエピソードなど、いろんな意味でが絡むこの作品において、フェミニズムがカギとならざるを得ず、それゆえに本作ではすべての事件を操っていた「蜘蛛」によりフェミニズムが利用されてしまう、という展開になっています。
この作品の前半で出てくる男たちは男尊女卑のどうしようもない人間が多く、それに対して女性たちはとてもしっかりしているので、あんまりフェミニズムそのものが悪者、って印象は与えないのですが、この作品でも「フェミニストの人が、あまりにも杓子定規すぎて怖い」って描写はちょこちょこあったりします。
何が言いたいのかというと
「人道主義」でも「フェミニズム」でもいいんですが、ホームレスのことをあんまり知らない私らが、ろくに知らないのにあーだこーだ決めつけて語るのはやめた方がいいんじゃないかなってことですね。
何かが「こうであらねばならぬ」と決めつけて、その「正解」にしがみつきすぎたり、「正解」でないものを排除しようとするとそこに憑き物が出てくるんじゃないかと思ったり思わなかったり。
一般論は一般論としてポリコレでいいけど、個々の事例に対してその一般論を杓子定規に当てはめるだけの人はやっぱり苦手だなあと。一般論は基準としてあってもいいのだけれど、個々の事例についてはちゃんと1つ1つ是々非々を丁寧に考えられるようにしたいですよね。