今回は、タイトルである「絶対国防圏」構想の前提部分を整理していく。
航空戦力が不足&性能面でも勝てなくなっていた
ジリ貧ながらもラバウル1943の時点ではまだ個々の戦闘では粘っていた日本海軍。
しかし、空母の不足に加えて、零戦ではB17の迎撃ができなくなってきた。
新型戦闘機の開発はおこなわれていたが、これは艦載航空機ではない。
艦戦の「烈風」は開発が遅れていたから航空戦力ではアメリカ軍に遥かに劣っている状態となった。
おかげで夜にしか移動ができず、まともな作戦行動が取れなかったし、夜戦は駆逐艦が主体なので、どんどん駆逐艦が減っていった。
というわけで航空機の不足がまず問題だったわけだが、航空機以上の問題として船が足りず戦線を維持する輸送力がなくなっていた
この時点ですでに国内の生活物資の輸送のために陸海軍の船を使わないといけないくらいに船が不足していた。
精神論以前の問題であり、単純な算数の問題で、戦闘領域を維持できなくなっていた。
そもそも海軍は、戦線を維持するために陸軍から兵力を大量に借りていた
このせいで陸軍は五号作戦を実行できず完全に中国の戦線は手詰まりになった。
陸軍としては、ここまでして協力してたのに海軍が全然勝てなくなったので海軍にこれ以上協力ができない状況になっていた。
しかも日本にとっては都合が悪いことに、ドイツがアメリカ勢力をヨーロッパに留めきれなくなった
こうしてみると、太平洋戦争序盤の日本の目覚ましい戦果は、外国の介入を嫌った蒋介石の判断やドイツ無双状態に依存していただけだったのかもしれないね・・・
ドイツ側はレーダー電波を逆探知する警戒装置(メトックス)を開発し連合軍の対潜哨戒機の探知を回避することができるようになったため、1942年夏に一時的に優位に立ったが、翌43年春には連合軍がメトックスでは探知できない波長を使用するレーダーを実用化したためその優位も失われた。またドイツ側は連合軍が新型レーダーを投入したことを見逃し、逆に警戒装置から漏れる電波を連合軍が探知していると誤解していたため、対抗手段の開発はさらに後手にまわった。
ソナーなどが普及するにつれて撃沈されることが多くなり、第二次大戦を通じてUボート乗組員の死傷率は63%という数字だった。捕虜も含めると73%になり、時期や場所にもよるが、トータルでは生存者は3割程度しかいなかった
ちなみに、この時対ドイツ戦で潜水艦および対潜水艦技術が飛躍的に向上したのだが日本の潜水艦および対潜水艦技術はあまり開発がすすまなかったため、1944年以降はアメリカの潜水艦によって海域がすべて封鎖されることになる。
連合国軍が中国への支援を強化したため陸軍も厳しい状況になってきた
会談では、特に極東の戦略問題が討議され、アメリカからは、日本に対して海洋軍事力による粉砕と日本近海の制圧とともに、ビルマを通って中国の日本軍に攻撃力を向け、その上で中国の空軍基地から日本本土に対する集中的、連続的空襲が不可欠であるとした。イギリスからは、太平洋正面からフィリピンへ、次いで日本本土を包囲的に作戦を進める戦略を主張した。結局決定には至らなかったが、中国との陸路の連絡をつけ、かつ空路を改善し確保する目的をもって、その攻撃作戦に努力を傾注すべきことが決定された
連合国の対中支援が強化されたため、陸軍は海軍にこれ以上兵を貸し出すことが不可能になった。
というわけで、日本の戦力が明らかに不足している状況でアメリカはさらなる戦力増強と新兵器投入を行う。悟空がいない状況でのフリーザ様第二形態みたいな状態に
アメリカは零戦キラーである「ヘルキャット」と、エセックス級空母を投入。海上戦闘で完全に勝てない状態になった
F6Fは一般的には(とくに日本では)零戦に対抗するため急遽開発された機体であるように紹介されることがあるが、制式採用経過後も新技術に頼らない保守的かつ堅実な設計であり、また開発時期から見ても、さまざまな新機軸を盛り込んだがために、空母艦載機としての採用が遅れた同時期のF4Uのいわゆる“保険”としての採用経過からも、実際にはF4Fの発展強化型のような存在である
より革新的かつ基本性能に勝るF4Uが不具合を解消し艦載機として太平洋戦争終盤に配備されるようになると、F6Fは徐々に第一線からは引き揚げられ、第二次大戦が終結すると急速に退役した。
同じ艦上戦闘機でありながら「限られた出力の発動機で最大限の運動性能を発揮するため徹底的に軽量化してパイロット個人の技量を活かした格闘戦を仕掛ける」零戦に対し
「大出力の発動機による余裕を防御性能に配分して生存性を確保しつつ、僚機との無線による連携で戦術的・戦略的に戦う」F6Fは、まさに正反対の性格をもつ戦闘機であり、日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴している。
零戦は、あくまで優秀なパイロットの技量がなければ戦えなかった。
日本側の優秀なパイロットはもう殆どが死んでしまった状態で、さらにパイロットの技量で劣っていても勝てるF6Fが出てきてしまったのはダメ押しとなった。
さらにこの段階でイタリアは無条件降伏して枢軸の一角が崩れ、ますますパワーバランスが不利になった(9月8日)
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とはいえ、これは一時的なクーデターであり、ムッソリーニはそのあと幽閉状態から開放されて内戦を継続した。
イタリアは、北のムッソリーニ隷下のイタリア社会共和国と南の連合国に降伏したイタリア王国との内戦状態に陥った。
混迷するイタリアの君主に即位することを臨んだ王太子ウンベルトは、高齢で引退した父国王に代わって、摂政としてサヴォイア王家の復興のために、西側連合国に協力し、「自由イタリア軍」を認めて、北と戦う決意をした。
最終的にムッソリーニが処刑されたのは1945年4月である。
あまりに不甲斐ない海軍に対して、天皇が陸海軍に介入することに
これを受けた東條英機は、海軍と陸軍が合一するための「絶対国防圏」構想を提出することになった。
ぶっちゃけ、判断が遅すぎる・・・。