「軍需省」設立と前後して、学徒動員が開始する。
10月1日、当時の東條内閣は「在学徴集延期臨時特例」(昭和18年勅令第755号)を公布した。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものである。
この特例の公布・施行と同時に「昭和十八年臨時徴兵検査規則」(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ
同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
元々1941年から臨時徴兵などを行っていたがまず文系の高学歴な学生がターゲットになった。
入営時に幹部候補生試験などを受け将校・士官として出征した者が多かったが
戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり
慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。
アメリカの「カットホイール作戦」に対抗する日本軍。上方面はまだ踏ん張っていた。とはいえ、ラバウルまであと300kmのところまで押し込まれる
ガダルカナル⇒ニュージョージア⇒ブーゲンビル。もはやラバウルまであと300kmしかなかった
ブーゲンビル島が陥落するともはやラバウルを守ることが困難になるため、ブーゲンヒル島を懸命に防御したが、
ガダルカナル島の「餓島(がとう)」に対して、ボーゲンビル島は「墓島(ぼとう)」と呼ばれる状況であった。
司令部に見捨てられた島の兵士は終戦までずっと戦闘を継続し続けた。
海軍もこちらではかなりの損害を出してしまう。
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下方面のニューギニア方面軍はさらに追い詰められる。ラバウルやその後方を守るために、ニューギニアの部隊は捨て石になった
上方面を一生懸命守っても、下方面からはすでにラバウルが直接攻撃できる状態だった。
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第51師団将兵の苦難はこれで終わりではなかった。ようやく到着したキアリもまた連合軍に包囲され、フィニステル山脈を縦走してマダンへ脱出することになる。
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1944年1月2日、キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ岬)にアメリカ軍第32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し
またも日本軍は退路を絶たれてしまった。
シオ・ガリ地区に集結していた日本軍は海岸を迂回し、フィニステル山系の中腹を横断してマダンへ撤退した(ガリ転進)
サワラケット山脈の頂点は4100メートルもあり、気温は氷点下20度だった。全員がろくな装備もないまま富士山越えをやらされたことになる。
古賀司令官は、ブーゲンヒル島を防衛するために「ろ号作戦」「ハ号作戦」を行うが、貴重な航空隊を失っただけで終わり、ブーゲンヒル島を取り戻すことはできなかった
これ以上航空機を損耗できない状況だったが、それでもブーゲンヒル島を落とされるわけには行かなかった。
しかし結果としては・・・
この時点ですでにエセックス級空母は対空防御システムが完成し、もはや日本の航空機はただ撃ち落とされるだけになった。
※ブーゲンヒルの戦いの詳細などは密度が濃すぎるので大幅カットしました。興味を持った人は是非作品を買って読んでみてください。
それどころか返す刀でついにラバウルが攻撃される展開に。
米軍が手薄になったラバウルを襲撃し、日本軍は打撃を受ける
さらに空母5隻を動員した第二撃が叩き込まれた。
結局日本軍はラバウルを守りきることが困難な状況になり、2500km後方のアンボン島やマノクワリまで後退して防衛戦を引くことになった
その際に、絶対国防圏の外にあるニューギニアの部隊は、時間稼ぎのための捨て石にされる結果に。
ただし、海軍はニューギニアをほぼ見捨てたが、陸軍はまだニューギニアの部隊を救おうとしており、ここでチグハグな動きになった。