・秋元康は言いました。「時計の針は2度あう」と。
forbesjapan.com
・また、流行は20年や30年で1周するとよく言われます。
media.hoken-clinic.com
・他にも景気循環のサイクルなんて話も有名ですよね。
キチンの波:在庫の変動に起因する約40ヶ月周期の波動
ジュグラーの波:設備投資の変化に起因する約10年周期の波動
クズネッツの波:建設需要に起因する約20年周期の波動
コンドラチェフの波:技術革新に起因する約50年周期の波動
「価値観のアップデート」とか言っている方々はこのことをよく理解して
「螺旋階段のように上に上がっていくのではなくてただ2次元平面で一周して先祖返りしてしまっただけ」
「数十年前の焼き直しになってしまい、一周回って時代遅れになる」
という状況に陥らないように気をつける必要があると私は思います。
フェミニストはよく「価値観のアップデート」を主張するが、このことを全く理解していなかったため、「三つ子の魂百まで」という感じで、おそらく本人が小学生の頃に教育を受けた1980年代のネオ朝田理論に先祖返りしてしまっている
というわけで、「ネオ朝田理論三銃士」みたいになってる人たちがいて興味深かった。
三人の意見をまとめるとこんな感じ。
この比較表生成AIが30秒で作ってくれたんだけどすごくない?
今後はさ、他人と話をしてて噛み合わないなって思ったら、それぞれの言い分をテキストにしてこうやって比較表作らせれば
「実は共通している部分もある」「ここの部分が食い違っている」ってのが簡単に可視化されるからすり合わせが楽になりそうだよね!
某カップうどんのCMの話。あれが性差別的に見えるか否かは、それを観察する者の認識論的条件に左右される。あれが性差別的に見えない人は、日常的に性差別の脅威にさらされていない人ではないか。「自分には性的に見えない」という主張は、それを性差別的だと認識する人への決定的な反論にはならない。
— 戸谷洋志 (@toyahiroshi) 2025年2月21日
某カップうどんのCMの話。あれが性差別的に見えるか否かは、それを観察する者の認識論的条件に左右される。あれが性差別的に見えない人は、日常的に性差別の脅威にさらされていない人ではないか。「自分には性的に見えない」という主張は、それを性差別的だと認識する人への決定的な反論にはならない。僕は、最初あれは性差別的に見えなかったが、それが性差別的に見えるとする人の話を聞いて、見方が変わり、反省した。女性を性的に描くことを自明とする社会において、女性は公共空間において性的な言動を差し向けられ、その脅威を回避するために、そこから排除される。そこには明らかな差別がある。
僕が、最初あのCMが性的に見えなかったのは、明らかに僕がそうした性差別の脅威から免れているからだ。僕と、そうした脅威に日常的にされているひととは、認識論的条件が異なるのであり、だからこそあのCMに対する見方も異なる。そしてそのとき優先されるべき見方はどちらだろうか。後者ではないか。なるほど、あのCMが性的に見えない、ということは事実かも知れない。しかし、その主張が、あのCMが性的に見えるという主張を覆せる、と考えるほどに、自分が性差別に脅かされる人に対して発言力があると考える人は、いったいどれだけ、それ以外の場面で性差別を根絶するための闘争をしているのだろう。少なくとも、これみよがしに、「僕はあれは全然性的だと思わなかった」と主張する人は、公共空間において性的な言動の脅威に苦しむ人の生き辛さを1%でも想像する努力をするべきだと思う。想像できないなら、想像力を拡張するための具体的な行動をするべきだと思う。
ついでに言うとね、「どこが性的なのか分からないから教えて」という要求自体が、相手に性的な言動を指し向ける暴力ですからね。そういう人は、少しは自分の暴力性を自覚した方がいいですよ。
「差別された気分になる女の子のことを理解しないのは良くないと思う!」式のネオ朝田理論を開陳しておられた先生の単書が女子大学生相手に男性教授が講義する内容だったってので治安悪めTLが沸いているけれど(表紙はその非実在女子大生)、何とも、こう……
— 𝕳𝖎𝖗𝖔𝖐𝖔 𝖄𝖆𝖞𝖆𝖓𝖊⚡️雑談用 (@chat_le_fou) 2025年2月23日
小宮さんといい戸谷さんといい、なんでアカデミズムでフェミ系の教員やってる人は自分が実践できないことを人に要求する上に、その際にいちいち「少しは自分の暴力性を自覚した方がいいですよ」みたいに上から目線で語ってしまうのか・・・。
そういう態度を取るから毎回カウンターで自分の過去の所業掘られて、しかもろくな反論が出来なくて結局象牙の塔に籠もる羽目になるんだから、最初からもうちょっと慎重に発言すればいいのに。
自分が無謬で究極で無敵の教員という勘違いをしてない限り、こういう発言をすることの意味とは…ってなりますけどね。
「赤いきつね」の件を見ていて思うことがいくつかある。自分はこれがアニメ表現や広告表現が変わっていくひとつのきっかけになるといい、と思っている。…
— 内沼晋太郎📚 (@numabooks) 2025年2月20日
「赤いきつね」の件を見ていて思うことがいくつかある。自分はこれがアニメ表現や広告表現が変わっていくひとつのきっかけになるといい、と思っている。
まず思うのは、「性的」という言葉の意味について共通の理解ができていないことだ。「そこまででない」と表明している人たちの多くは、「性的」ということばを「性欲」に関するものと捉えていて、この動画を「性欲を刺激する要素はない」あるいは「ポルノグラフィックではない」ということを言っているのだと思う。一方、この動画を「性的だ」として「気持ち悪い」と表明する人の多くは文字通りこの世界の「性」差の話をしていて、とくにこの動画の女性の描かれ方に強い「男性のまなざし(male gaze)」を感じ、「性的だ」=「男性のまなざし(male gaze)がある」ということを指摘しているように思う。リアリティに関する指摘(現実にこういう食べ方はしない)の多くも、アニメに刷り込まれたまなざしの話をしていると感じる。さらに「男性が職場で残業している/女性は家で映画を見て涙を流している」というジェンダーバイアスの問題も重なっている。そこがずれたまま「性的である/ない」というかみ合わない話が行われているところがある。
もうひとつ思うのは、単にこの「赤いきつね」の動画だけが突出して問題だというよりも、アニメ表現やCM表現に長らく存在していたこの「男性のまなざし(male gaze)」やジェンダーバイアスの問題が、たまたまこのタイミングで噴出しているということだ。だから通常の炎上ほどは「不買だ」とか「取り下げろ」とかいう人は(いないことはないが)少ない。作り手を責める人も少ない(偶然のタイミングであって誰にでも訪れた可能性があるし、そもそも当然このようなときにクリエイター個人を責めるべきではない。クライアントの要望と業界慣習の中で仕事をしているはずだし、だからこそ製作者のジェンダーとは関係ない問題として語られている)し、個人的には広告主にマイナスの感情はない(当然マイナスの感情を持つことも自然で自由だし、表明しても何も咎められるべきことはないと思う)。ずっとこうだったから、さすがにもうこれをきっかけに、アニメも広告も、いい加減変わろう、という立場の人が多いと感じる。自分もそうだ。
またやや視点がずれるが、この炎上をきっかけにやや広がった「非実在型ネット炎上」ということばについても思うところがある。もともと小さな話題を炎上としてメディアが書くことで起こった炎上という意味のようだが、炎上とは文字通り小さな火がどんどん大きくなることであり、「非実在型」というワーディングは「小さな声」を矮小化することになる。やや説明的過ぎるかもしれないが「メディア増幅型」とでもしたほうがよいのではないか。実際、今回の「赤いきつね」の件は最初は「小さな声」だったかもしれないし、メディアの力で大きくなったかもしれないが、しかしこれだけ議論が続いているのは、アニメや広告の中に過去からずっと続いてきた見えにくい「性的」な問題が詰め込まれていたからだと思う。多くの不毛な炎上とは違い、いろんな人の意見を読んで発見することも多い。
自分自身も勉強中の男性であり、この投稿にもまたバイアスがある可能性は否めない。自分も学ぶきっかけになればと思って投稿しているし、せっかく大きくなったこの話題が、世の中の意識が少しでも変わるきっかけになればと思っている。アニメの動きはすべて人間の表象であるから人間側が変われば変わるし、広告の歴史を振り返ってもそこで果たされるべき企業の社会的責任があるので組織の意識が変われば変わる。そしてメディアの側は、PV目的で小さな火をいたずらに炎上させるのでも、既得権の側について特定の炎上を消そうとするのでもなく、焚き火のそばに座る人のように、社会を照らし温める役割として、問うべきことを問いつつ個人を不当に傷つけないよう、適切に火を扱う責任を持つべきだと思う。
①先日ポストした東洋水産(マルちゃん)「赤いきつねと緑のたぬき」アニメCMの件について、もう少し言葉を尽くして整理すると、多くの女性が問題としている点は、男性バージョンに比べて女性バージョンは何故こんなにもさまざまな身体部位や一つ一つのしぐさを“まなざされる”(舐めまわされる)のか、 https://t.co/uE3aHH9ZWn
— 我妻和樹(あがつま・かずき) (@zukizuki_kun) 2025年2月23日
先日ポストした東洋水産(マルちゃん)「赤いきつねと緑のたぬき」アニメCMの件について、もう少し言葉を尽くして整理すると、多くの女性が問題としている点は、男性バージョンに比べて女性バージョンは何故こんなにもさまざまな身体部位や一つ一つのしぐさを“まなざされる”(舐めまわされる)のかそして制作側はそのまなざしの主体として誰を意識しているのか、ということなのかなと思う。その答えは、アニメ制作会社が声明を出した今でも分からない。もしかしたら、制作側がとくに深く考えず、これまでのアニメ業界の通例を無意識的に踏襲しただけのことなのかもしれないし、逆に「男性ってこういうのが好きだよね」と意図的にやったことなのかもしれない。(この場合「男性」と限定せず女性を含めた「オタク界隈の人たち」と言ったほうが適切なのかもしれないが。)
ここで重要なのは、そのどちらだとしても、アニメを含むさまざまなコンテンツで、女性を過度に性的・愛玩的に表象する女性蔑視的文化は確実にあって、性差別に対する理解がアップデートされているはずの現代でも、そこへの批判抜きに女性を消費し、恩恵を享受し合う土壌がそこかしこに残っているということだ。そしてそのような背景が今回のアニメにも影響しているのではと個人的に想像する。(ちなみにクリエイターが女性でも、コンテンツからの影響やその界隈での自己実現のために女性蔑視的な表象を内面化していたり、クライアントに迎合したりすることは往々にしてあると思う。)
そして今回、ただでさえ多くの女性がこうした表象が多過ぎて辟易としているところに、男女両方のバージョンが並んで比較されたことによって、男女の描かれ方の明確な違いから、より違和感や嫌悪感を抱くことになった。(同様のケースに三重交通の公式キャラの炎上があると思う。)また、それによってCMを発注し、OKを出した東洋水産株式会社という、コンプライアンスに厳しいはずの大企業までもが性差別を内面化していることが分かり(CM公開記念で作られたパーカーの男女別のデザインからもそれは見て取れる)、そうした社会ぐるみのまなざしに女性たちの反発の声が大きくなった。それが今回の炎上の大きな要因なのではないかと個人的には思っている。
正直に言うと、僕自身、最初にこのCMの女性バージョンを観たときには、とくに性的な意味での違和感を覚えることはなかった。(むしろ多くの人が指摘しているように、ある一定数の男性の「こうあってほしい」を投影しているような気がして、細かいところが不自然で現実感に乏しいなとは思った。)ただ、多くの女性の意見を目にして、あとから「なるほど」と思うことになった。そう思えたのは、自分が性暴力・性搾取・フェミニズムについて勉強していることも関係しているのかもしれないが、この男女での認識や肌感覚(何を脅威と感じるか)の違いに、この問題の本質が隠れているのではないだろうか。
今回、最初に口火を切ったのが誰なのか僕には分からないが、市井のフェミニストのみなさんがこうした男性からの性的なまなざしに敏感なのは、このまなざしの背景にある男尊女卑の社会構造や女性蔑視的文化に多くの女性たちが抑圧されてきた痛みを知っているからだろう。彼女たちは、このまなざしの蔓延によって多くの女性が男性が気付かぬうちにどれだけ不快な思いをしてきたかを実体験としてよくよく知っていて、このまなざしの先に「何が起こり得るか」ということもよくよく分かっているからこそ、「大企業なら自社の広告に性差別的なものがないか、もっと厳密に考えるべきなのでは?」と社会に警鐘を鳴らしているのだと個人的に解釈している。(先のポストで、僕が企業に対して「無自覚」と偉そうに言ったのはこの点にある。)ただ、「問題に気付かなくても困らない特権」を有している多くの男性には、この訴えが理解できないのだろう。
実際、こうした女性たちの反発の声に対して、男性からは「考え過ぎだ」「性的な見方をするほうがおかしい」といった女性の口を塞ぐような意見がたくさん出てきている。(それも今回の炎上の大きな要因だろう。)女性が実際に肌で感じている脅威から「嫌」と言っているのに対し、理解できずに「なんで?」とさらに追い詰めてくる男性のことを「嫌知らず」というそうだが、特権を駆使した一種のモラハラ・DV的な行為は一部のインフルエンサーを筆頭に今もさまざまな形で続いている。そのような形で、今度は女性たちへのバックラッシュとして企業を応援する人たちも出てきて、そうなってくると、東洋水産が性差別に無頓着な顧客層(とりわけミソジニー層)で成り立っているようにも見えてきて、この流れは企業にとって良いのだろうかと逆に心配になったりもする。
個人的には、このCMの女性バージョンの表現そのものが禁止されるべきとまでは思わない。一方で、表象されたもののフレームの外にどのような意図や文脈があるかを鋭く見抜く人たちは必ずいて、男性としてそうした視点から学ぶことは多分にあると思う。だから、企業はこれを機に、女性たちの声を受け止めて変わっていけばよいのではと思う。それは企業CMだけでなく、アニメ業界全体、もっというと実写を含む表現活動全般に共通する課題なのではと思う。そうして社会問題について学んでアップデートすることで、女性の描き方をルッキズムやミソジニーで画一的な貧しいものにすることなく、もっと多様な豊かなものにしていけるのではないだろうか。
というようなことをいろいろ考えていて、まだ言葉がちゃんと整理されないうちに、真夜中に心の中の声を「この問題ってこういうことなんじゃないかな?」とボソッと呟いたのが冒頭のポストなのでした。そういうものに限ってバズってしまったりするので、もう一度ちゃんと言葉にしないといけないなと思った次第です。
参考:朝田理論及びその変遷について(※ネオ朝田理論という正式名称はない)
これが朝田理論だ!って吹き上がってる人が増えてきているようだが、
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2025年2月23日
これは「ネオ朝田理論」だよ。 https://t.co/l7XvNA4izOpic.twitter.com/CQ3NFuGkmT
「生活指導」に的を絞って時系列追ってみた図
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2025年2月23日
教育学者の大西忠治・竹内常一が理論立ててきたもんっすね。「部落解放運動」ともつながりが深い(途中決裂していた時期はあったようだが)。
グレー背景の部分と学校の中は、一般大衆には見えにくくかったんだわ。 pic.twitter.com/Z7N5jrvc0q
朝田理論と全生研方式の集団主義理論が出会って「討議で(と排除でシバイて)作る民主集中制」に熟成。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2025年2月23日
1980年台に批判を浴びたが「寄り添いと勇気づけでつくる民主的な集団づくり」に路線転換して生き残る。
そういう指導を素直に信じたお子様たちが「ネオ朝田理論」の使い手になってんのよ。
残りの部分は生成AIによる朝田理論の解説およびその補足だけなので読みたい人だけ読んでください。