日本は戦況が不利な状況で、戦線が拡大しきっていた。
絶頂期を過ぎた後のナポレオンのような状態になっていた。
海戦は航空戦力が重要なのに、日本軍はその航空戦力の精鋭部隊を決戦前に消耗しきってしまった。
まして、当初想定していた「艦隊決戦」などできる状態ではなかった。
戦艦は石油消費量が多いため運用が困難になっており、艦隊どうしの勝負でも霧島がワシントンに完敗していた。
もはや開戦前に日本海軍が予想していた「短期決戦ならあるいは」という想定すら破綻していた。
にもかかわらず、日本海軍は未だに当初の想定にしがみつくような行動を繰り返し「決戦」など一度もできないまま、ひたすらジリジリと追い詰められていく。
(あえていうと後の「レイテ沖の戦い」が決戦と言えるかもしれないが、結果としては戦う前から勝負になっていなかった。
その時点の日本海軍の全力を持ってしても、アメリカ軍の一方面軍と善戦するのが精一杯であり、圧倒的被害をうけて撤退した)
陸軍と海軍の意思疎通がうまくいっておらず、ニューギニアではすでに陸軍が玉砕を繰り返している中でニューギニアに固執して輸送を続けたが犠牲を増やすだけだった(2月~3月)
図の通り、敵に制空権握られてる地域のど真ん中に、輸送艦でつっこむとか正気ではない・・・
あまりにもずさんすぎる計画であり、護衛の三倍の航空機が襲ってくる中でノロノロとしか移動できない輸送艦を突っ込ませた。
なお、アメリカ軍はこの際に効率的に輸送艦を撃沈するために「スキップボンビング」を利用した。
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対空戦力が弱い&速度がゆっくりだとスキップボンビングの格好の的だった。
貴重な輸送艦も、護衛の駆逐艦も、航空部隊もすべて失っただけで何の成果も得られませんでした!
一連の戦闘により、日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻沈没、駆逐艦4隻沈没)
乗船将兵約3,000名が戦死
搭載していた重機材すべてを喪失。
ダンピール海峡の悲劇と呼称された
このあたりから明確に「輸送艦および輸送艦を護衛している駆逐艦が、戦うことすらできずに一方的になぶりものにされて沈没する」という惨状が繰り返されることになる。
山本五十六は、戦力の逐次投入は全て負けると判断し、戦力を集結しての航空決戦を目指そうとした(4月)
ニューギニアの制空権を取り返すため、戦力を集中投下してアメリカ軍の陸上基地を攻撃した。
海軍の要である空母艦載機まで徴収しての作戦であった。
しかし実際は、開戦当初と比べてパイロットの練度がおちており、貴重な空母艦載機を大量に失ってしまった。
たしかにこの期間だけは輸送がスムーズに行われたが、そのための損害は大きすぎたため
「もはや戦うために輸送をするのか、輸送をするために戦うのか」がわからない状態になっていった。
結局10日ほどでい号作戦は終了となった。
しかも、この直後に山本五十六は暗殺されてしまう
海軍の暗号はとっくに解読されてしまっていたため、司令官が移動中に撃墜されるという前代未聞の失態につながってしまった。
当時、その方面は日本海軍の制空権下にあり、飛来する敵機は高高度から単機で偵察行動をするP-38程度であり、危機感は些かもなかった。
その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。
この暗号電文はアメリカ軍に傍受された。
日本側は全く関知していなかったことだが、アメリカ軍情報部は当時すでに日本軍の暗号解読に成功しており
この電文も直ちに解読され、山本の視察の経路と予定時刻は米軍の把握するところとなった
このときまでは海軍は自分たちの暗号がここまで漏れているとは思っていなかったのかもしれない。
後任の司令官は古賀峯一になった。
山本五十六が最後に行った「い号作戦」のおかげでなんとかニューギニアのラエやサラモアに兵力を送り込むことに成功するが……
ソロモン諸島での制空権が握られてしまっており
さらに輸送艦隊はビスマルク海海戦でほぼ壊滅していた。
仕方なく駆逐艦による輸送を行い、その輸送の過程で駆逐艦がやられるという流れを繰り返すことになる。
この過程で、先のルンガ沖海戦で活躍した陽炎など第15駆逐艦が全滅。
そこまでして送り込まれた兵士たちだが、その後は補給が途絶えた後でひたすら撤退戦を強いられるようになる。
この時点で、以前からニューギニアに送り込まれていた兵士たちの4分の3が病人という凄まじい状態になっていた。
ここにきてついに、輸送の問題で燃料が足りなくなり、この問題を解決するために「ヒ船団」(大型高速タンカーの船団)が創設される
まだ1943年5月だぞ……。
この時点ではまだ生産はまだおいついておりあくまで輸送の問題だが、少なくとももう輸送が間に合わないと国内で備蓄が足りない状態だった。
南方作戦での資源地帯確保は極めて順調で、危惧された油田設備の破壊も少なかったにもかかわらず、その後の占領地からの輸送(当時の用語で「還送」)はあまり順調ではなかった。その大きな原因はタンカーの不足にあった。
ヒ船団の運航が始まった1943(昭和18)年度には、360万トンの石油輸入が必要と計算されていた。しかし、輸入実績は1943年(昭和18年)末の段階で185万トンにとどまっていた
7月、日本海軍は、石油の本土輸送のため、石油輸送専門の高速護送船団を新たに運航することにし、これをヒ船団と命名した。
これを守りきれなくなったときが日本軍の終わりである。
古賀提督はラバウルで軍を再編して再びソロモン諸島の制空権を取り戻そうとするが、もはや補充した兵力以上のペースで消耗していくだけだった
何をやっても戦局を打開できないまま、ただひたすらに損害が拡大していく。
負け戦というのはこれほどまでに見ていてしんどいものなのか・・・。
いつまで戦力を維持できるかわからない状態の日本に対して、アメリカは軍備増強をさらに進め、5年先の1948年まで戦える計画を立てていた
本当に何から何まで、アメリカとの戦力差や戦略の差を感じるね・・・
現時点でもすでにアメリカにはほとんど勝てていないのだが
アメリカはまだヨーロッパを優先していてくれていた。
でも、この後対ドイツとの戦いが優位になるについれてさら日本にたいする圧力は高まっていく。
元々日本もドイツが勝つことが前提で踏ん張ってたところはあっただろうからなあ・・・
4-2の予定
明日はここまでの流れで拾いきれなかった
・アッツ島の戦い
・キスカ島の戦い
・陸奥爆沈
あたりを拾った上で、4-3ではソロモン諸島の日本軍がどんどんやられていくというつらい展開を取り上げていきたいと思います。