◆1943年のアメリカ海軍の体制
いよいよアメリカの「カットホイール作戦」が発動。あえてラバウルを占領せず、周辺を制圧して孤立させる戦略を取った
ガ島のときもそうだったけど、「日本軍は直接追い詰めようとすると撤退しないかわりに、周囲を抑えておくと延々と自滅していく」のがバレてしまっている。
まず上側の戦線は・・・戦闘ではなんとか引き分けているのに、戦力差によってじわじわと押されていく展開が続く。
ガダルカナル島からは400kmほど後退してニュージョージアやコロンバンガラ島を拠点に防衛するころに。
拡大した図がこちら。
アメリカ軍はすでにニュージョージア島に上陸していた。
日本軍はニュージョージア島の飛行場を守るためにコロンバンガラ島を拠点として戦おうとした。
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この戦闘では神通がすごい戦いを見せた。
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神通の生存者は伊号第百八十潜水艦により21名が救助され、アメリカの高速輸送艦デントとウォーターにも2名が救助されている
しかし、現場の兵士は不利な状況でも奮戦していたがまたしても海軍がやらかし。
海軍の輸送船団暗号が解読されてしまった
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夜戦でまたしても敗北。ニュージョージア島からの撤退が決定される。
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後方のベララベラ島に日本軍を揚陸させることには成功したが、それ以外の島からは撤退・・・とかなりジリ貧の状態に。
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レカタ島にいた兵士は収容された。
一方下の戦線は悲惨だった。ニューギニアの部隊はマッカーサーが率いる米軍に攻め込まれていた
上はジリ貧ながらも踏ん張っていたが、こちらは踏ん張れなかった
ニューギニアの兵士たちは長い時間をかけてじわじわ撤退しながらすり潰されていくことになる……。
この時点からすでに「特攻隊」のアイデアが議論され始める…
山本五十六は、黒島の才能を高く買っており、他の参謀とは違う観点から意見をのべる黒島を重用して、戦死するまでの4年間手元に置いていた。
山本は「黒島は人の考えが及ばぬところ気づかぬところに着眼して深く研究する。奇想天外なところもある。
しかもそれを直言してはばからない美点がある。こういう人がいなければ天下の大事なせぬ。だから手放さない」と語っている。
また、山本は参謀長の宇垣纏を遠ざけており、参謀長を経由せず、
首席参謀の黒島に指示を出したことで、連合艦隊司令部は黒島と戦務参謀の渡辺安次中佐が影響力を持つことになった
1943年8月6日、軍備考査部会議の席で黒島は突飛意表外の方策、必死必殺の戦を行なう必要があるとし、その一例として、戦闘機による衝突撃(航空特攻)の戦法を挙げた。
また、8月11日の戦備考査部会議では「第三段作戦に応ずる戦備方針」として必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備の確立を主張する
黒島は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題する特攻兵器を含む各種提案を行った。
内容は、飛行機増翼(民間の佐藤五郎考案、航続力増加で戦力4倍を見込むとするもの)、
体当たり戦闘機、小型潜水艇(水中での戦闘機)、局地防備用可潜艇(甲標的丙型)、装甲爆破艇(震洋)、自走爆雷艇、1名速力50節航続4万米の大威力魚雷(回天)であり、
軍令部で検討後、水中兵器の各種緊急実験を海軍省に要望し艦政本部は特攻兵器の特殊緊急実験を開始した
8月、大田正一発案の「桜花」が海軍省航空本部より持ち込まれると黒島はそれも承認して研究が開始された。
1945年には人間機雷「伏龍」も黒島の発案で開発が始まった
航空特攻の責任者が大西であるとするならば、海の特攻の責任者がこの黒島であった。
大西は戦後すぐに責任を取って特攻隊の兵士たちに詫びる遺書を残して自殺したが
黒島は極東裁判にも出席せず、証拠も消して生き延びたとされるためよく悪役として描かれがち。