昨日「ヒルビリー・エレジー」を見て、ヒルビリー的なものへの共感に感化されそうになっているのでちょっと中和しておく。
後半にネタ明かしがあるので、タイトルや序盤だけ見て反応しないようにだけ気をつけてね。
- 本文ここから。
- 「低次の現実主義」とは何か。
- 現実主義を語るなら、せめてその言葉に値する深さを持てと言いたい。
- この低次な連中の特徴は、現実という言葉を都合よく使い分ける点にある。
- さらに言えば、彼らの「現実主義」は、単なる自己正当化の道具でしかない。
- 現実を直視する勇気ではなく、現実に溺れる怠惰。それが彼らの真実だ。
- 結局、「低次の現実主義」とは、現実という言葉を借りた知性の欠如であり、意志の放棄である。
- 理念なき現実主義は、ただの動物的な生存本能にすぎない。
- ネタ明かしのコーナー
- 低次の現実主義を極めてしまった人のツイートがこちら
本文ここから。
「低次の現実主義」
この言葉を耳にするとき、僕の中で何かがざわつく。
それは、どこかで見たような、聞き飽きたような、薄っぺらい自称「現実派」の連中が放つ臭いがするからだ。
例えば、JDヴァンズのような人物やその支持者たちが得意げに振りかざす「ヒルビリーへの共感仕草」。
彼らはこう言いたいのだろう。
「軟弱なエリートどもと違って、俺たちは酸いも甘いも噛み分けたタフなリアリストだ。
ストリートファイトだって朝飯前さ」と。
自分たちが泥臭い現実の底を這い回ってきた猛者だとでもいうかのように、胸を張って語るその姿は、滑稽を通り越して哀れですらある。
彼らの言う「現実主義」がどれほど低次で、どれほど浅薄かを、僕たちは見逃してはならない。
例えば、彼らがウクライナのゼレンスキー大統領を批判する姿を見ていると、僕の中で一つの確信がより強固になる。
「人は理念や思想を持たなければ、どこまでも低俗なものに成り下がる」という信念だ。
ゼレンスキーを叩く彼らの論調はこうだ。
「戦争なんて勝ち目がないんだからさっさと降伏しろ」
「理想なんか掲げてる場合じゃない、現実を見ろ」と。
まるで、現実を直視する自分たちが高尚で、理想を掲げる者はただの夢想家だとでも言いたげだ。
だが、その「現実」とやらがどれほど矮小で、どれほど薄っぺらいかを、彼らは気づいていないのだろうか。
「低次の現実主義」とは何か。
それは、現実という言葉を盾に、思考停止と怠惰を正当化する態度のことだ。
彼らは「現実を見ろ」と叫ぶ。
でもその実、彼らの視野は目の前の泥濘にしか届かない。
地べたを這う虫のように、足元の餌にありつくことだけが彼らの「現実」であり
その先にある歴史や理念、未来への視座など、彼らの脳みそには到底収まりきらないらしい。
JDヴァンズの支持者たちが「ヒルビリーの苦しみを俺は知ってる」と得意げに語るのも、その一環だ。
彼らは「俺たちはリアルだ」と自慢するが、
その「リアル」とは、ただの感傷と自己憐憫にまみれた狭い世界でしかない。
ストリートファイトができたとして、それが何だというのか。
殴り合いができることが現実主義の証明だと言うなら、
それはただの野蛮人の自慢話にすぎない。
現実主義を語るなら、せめてその言葉に値する深さを持てと言いたい。
例えば、ゼレンスキー批判をする連中の言い分を聞いてみれば、その浅さがよく分かる。
「戦争は勝てないから降伏しろ」と言う彼らは、歴史を知らないのだろうか。
降伏がどれほどの屈辱と破滅を招くか、ナチスに膝を屈した国々の末路を見れば明らかだ。
あるいは、ソ連の支配下で喘いだ東欧諸国の苦しみを、彼らはどれだけ想像できるのか。
現実主義を名乗るなら、短期的な損得勘定だけでなく、
長期的な視点で何が「現実」を形作るのかを考えろと言いたい。
だが、彼らにはそんな知性も想像力もない。
ただ「今勝てないならやめろ」と喚くだけ。それが彼らの「低次の現実主義」の正体だ。
この低次な連中の特徴は、現実という言葉を都合よく使い分ける点にある。
自分たちの矮小な経験や感情に都合のいいものだけを「現実」と呼び、
それ以外の複雑さや高次の理念を「非現実的」と切り捨てる。
例えば、ゼレンスキーが掲げる「自由」や「独立」という理念を、彼らは「現実的じゃない」と笑う。
だが、自由や独立がなければ、そもそも国家として存続する意味すらないという事実は、
彼らの視野には入らないらしい。
理念を捨てて現実だけを見ろと言うなら、彼らはロシアの靴を舐めて生きる未来を甘受するのか?
いや、彼らにそんな覚悟はない。
ただ口先だけで「現実」を振りかざし、自分たちの臆病さと怠惰を隠しているだけだ。
さらに言えば、彼らの「現実主義」は、単なる自己正当化の道具でしかない。
JDヴァンズの支持者たちが「ヒルビリーの苦しみを理解してる俺たち」と言うとき
そこには本物の共感などない。
ただ、自分たちの生活の不満を、社会全体に押し付けるための口実があるだけだ。
「俺たちは苦労してきたんだから、理想なんか語るな」と喚くその姿は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
苦労してきたなら、その苦労を乗り越えるための思想や理念を持つべきではないのか?
なのに、彼らはただ「苦労した俺たち」を免罪符にして、考えることを放棄する。
それが「低次の現実主義」の本質だ。
現実を直視する勇気ではなく、現実に溺れる怠惰。それが彼らの真実だ。
対して、ゼレンスキーのような人物を見よ。
彼は「現実」を知らないわけではない。
戦争の過酷さ、国民の犠牲、経済の崩壊――それらを誰よりも身近に感じているはずだ。
それでも彼は理念を捨てない。
自由と独立を守るために戦うという選択は、決して「非現実的」ではない。
それは、現実を直視した上で、それを超える意志を持つということだ。
低次の現実主義者たちは、この点を決して理解できない。
彼らには、現実を「受け入れる」ことしかできないからだ。
現実を変える意志も、未来を切り開く想像力もない。
ただ目の前の泥濘に顔を突っ込んで、「これが現実だ」と嘆くだけ。それが彼らの限界だ。
結局、「低次の現実主義」とは、現実という言葉を借りた知性の欠如であり、意志の放棄である。
彼らは「現実を見ろ」と叫ぶが、その実、自分たちの視野の狭さを暴露しているにすぎない。
JDヴァンズの支持者たちが「俺たちはリアルだ」と自慢するのも、
ゼレンスキー批判者が「降伏しろ」と喚くのも、同じ病の症状だ。
彼らは現実主義者を気取るが、その実、ただの現実逃避者でしかない。
現実を直視するなら、そこから何かを生み出す意志を持て。
さもなければ、彼らはただの「低次」の存在として、歴史の片隅で朽ち果てるだけだ。
僕が「人は理念と思想を持たなければどこまでも低俗なものに成り下がる」と信じる理由は、ここにある。
理念なき現実主義は、ただの動物的な生存本能にすぎない。
人間である以上、僕たちは現実を超える何かを持つべきだ。
低次の現実主義者たちは、それを「非現実的」と笑うだろう。
だが、彼らの笑い声は、ただの空虚な響きにすぎない。
彼らが現実と呼ぶものは、しょせん泥濘の中の小さな世界だ。
その外に広がる広大な歴史と未来を、彼らは決して見ることはないだろう。
ネタ明かしのコーナー
この記事の元ネタ
「ヒルビリへの共感仕草は「軟弱なエリートたちと違って酸いも甘いも知ってる俺はストリートファイトもできるリアリスト」とか言いたいんでしょうけど、それでゼレンスキー批判してる連中みてると「人は理念と思想を持たなければどこまでも低俗なものに成り下がる」というワイの信念はより強固なものに…
— Shen (@shenmacro) 2025年3月6日
このツイートが大変興味深かったので、以前に自分が書いたこういう記事を読み込ませた上で
「低次の現実主義」を批判する文章を作ってもらった。
note.com
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www.tyoshiki.com
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私は一行も執筆してません。
ただ読みながら改行していっただけ。
でも、結構人間が書いてるっぽいとも思いました。
「じゃあよしきの意見はどうなのか?AIだけに語らせて卑怯じゃないか!」と言われそうなので一応自分の立場も書いておきます
私は、どちらかというとこの記事で批判される側の立場です。